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はじめましてRISSINです。
プロフィールまで見てくださってありがとうございます。
お時間の許すかぎり、少しでも興味を持って頂ける方は
プロフィール概略をご覧頂き、下の詳細も読んで頂けると嬉しい限りです。
RISSINのプロフィール概略
- ニックネーム RISSIN(りっしん)
- おうちのあるところ 大阪
- 単身赴任先 富士山がみえるところです
- 家族構成 妻と息子と娘
- 性格 気が非常に小さいですがポジティブです。せっかちで何事も早く解決して不安要素を減らしたい性格です。
- 好きな事(もの) 我が子二人。キングダム! スポーツはなんでも好きです。お酒も美味しいものも大好きです。
- 嫌いな事(もの) くよくよすること。雨・雪・雷 天気の悪いのが嫌いです。電車の移動。無駄な会議。
幼少期:父の影響
田園風景の自然豊かな京都府で生まれ、野山を駆け回りながら育ちました。
無口な父と心配性でやさしい母、二歳上の社交的な姉、活発だけどシャイなRISSINの家族構成。
父は社会人野球で企業に入社しただけあって、運動全般は何でもできる感じ。
反対に母は全くの運動音痴・・・姉は母のDNAを色濃く受け継ぎ、全くの運動音痴。
私はというと両親それぞれのDNAを半分ずつ受け継ぎ、ごく普通の男子でした。
父の影響で小学3年生の時、地元の少年野球チームに入団。練習はまじめに行ったが、ずっと5年生まで補欠だった。途中で投げ出すことが嫌いな父であった為、やめるという選択肢はなかった。
特にやりたいポジションはなかったが、ここも父の影響からキャッチャーを選択。しかしこれが想像以上に難しいポジションで、致命的だったのがキャッチ&スローのモーションが大きすぎるため、盗塁阻止率は0%。
ある時モーションが大きいから思い切ってピッチャーやってみろと言われ、練習試合2試合目に少しだけ練習して登板したら、意外にこれがナイスピッチング。
キャッチャーも急造キャッチャーだったが、2年くらい練習した自分より明らかにうまいときた・・・ポジションを変えるには十分すぎるくらい納得がいった。
しかし、ピッチャーは人気のポジションで、勝った時は皆褒めてくれるが、負けた時はほら見た事かと、陰口をたたかれ、俺の方が俺の方がと、まわりがざわざわしたのを覚えている。私も含めてみんな子供だった(笑)
でももっとつらかったのは、肩と肘の痛みだった。当時少年野球の球種はストレートのみ、変化球はNG。キャッチャーが構えたところに力任せになげるだけ。小学6年の終盤には、肩と肘の痛みと向き合いながら、ピッチャーをしていた。母にはよく肩やひじのマッサージをしてもらった。おかげで続けられた。
今思うと、野球の上手い選手は、野球が本当に好きで練習も夢中で好きでやっていたんだろうと思う。
RISSINはというと練習はきらい、プロ野球なんかも見るのは退屈、投球術や走塁など見て学ぶのはじっとしてられない・・・できれば都合よくうまくなりたいくらいしか考えていなかった。そりゃうまくならんわ(笑)
なにより普段はキャプテン翼が好きで、もっぱらドライブシュートやドリブルの練習を友達としていたのを記憶。サッカーが大好きだったけど近くにサッカークラブもなく、野球も好きだから継続という選択だった。
思春期:ヤンキー巣
地元の公立中学に入学。ここがなかなかのヤンキー巣(笑)カルチャーショックだった。
いろんな意味で井の中の蛙であったことを思い知らされる。
入部するのは野球を捨ててサッカー⚽部というのも頭をよぎったが、サッカー部を見て練習のキツさと先輩がヤンキー巣(笑)
これは理不尽極まりないと断念。野球なら経験者だし、レギュラーも狙えると入部⚾。
しかしこの判断は入部して甘かったことがすぐ判明。同学年のピッチャーは隣の小学校のエースが入部。結構すごいとは思っていたが一緒にやると更にバケモンであることが判明。
100mを11秒台で走り、遠投も80mを軽く投げる。しかも、RISSINは全力で負けるのだが、向こうは余力を残して適当にやっているのもわかる。残念だが才能は完敗。
ピッチャーチームでの練習は、先輩投手のキャッチャーも練習の一環。小学校の時はMAX90キロ位が、いきなり130キロのキャッチングを求められる。しかもいきなりフォークを投げられ、股間を直撃、悶絶なんてことは日常茶飯事。むしろ先輩の楽しみの一つ(笑)。
同学年のバケモンは1年から公式試合にも出場するほど活躍。RISSINも負けじとベンチ入り‼先輩から、『お前スコアラー』と言われ、スコアラーでベンチ入り(笑)。これが試合中机に座って試合を見れるので、気は抜けないが、中腰で声出しは回避できるのと、後々の配球の勉強になり、いい経験であった。
このまま中学3年間補欠で終わることも覚悟したが、バケモンは練習がきらい。RISSINはやめる選択肢は今まで同様全くなかったので、毎日練習をさぼらず厳しい練習に耐えた。バケモンは時々練習にきて試合に出るというのを繰り返したが、やはり練習不足はたたり、まったくストライクが入らないようになり、RISSINにお鉢が回ってくる。才能では完敗だが、練習は嘘をつかず、コントロールは人並みくらいで、3年の時にはエースになれた。
しかし、肘と肩の状態は限界。週末の練習試合登板後1週間は、肩・肘に力が入らず、痛みも引かない状態にまで悪化。3年の最後の大会もエースナンバー1だが、肘・肩の調子が悪くベンチスタート。ここからはまさに悪夢だったが、愚かにもエースのプライドみたいなものがRISSINには芽生え始めていて、早々に登板機会を監督にアピール。ピンチの場面で登板も、肘・肩共にボロボロで小手先のピッチングをするのだが、面白いように打たれ、最後の大会を敗退⇒号泣。RISSINの傲慢さが招いた敗戦。もう野球を部活で続けるのを諦めたのを記憶している。実際肩も肘も限界だった・・・。
しかし中学時代の部活は幸せだった。ピンチになったら皆グラウンドに集まって、俺を鼓舞してくれる。しかもみんなまあまあのヤンキー小僧達なのだが、ピッチャーの気持ちを乗せるようないい事言ってくれる。これまでマウンド上では孤独と感じることが多かったが、中学時代はチームメートに本当に助けられた。特に主将&キャッチャーは最高に俺を操るのがうまかった。乗せられてるのはわかりながらも、気持ちよく投げさせてくれた。ヤンキー小僧たちは口や態度は悪いが、みんな根はいい奴ばかりだった。
今更ながら、練習は技術や才能を磨くためのものでもあるが、チームメートとの信頼関係を築く重要な時間でもあることを学ばせてくれた。愚直に練習を続けていると、誰かは見てくれていて、いいこともあるもんだと分かった。
学生時代:凡人・田舎もん
高校は、母親に勧められ私立男子高校に進学した。
ここで今もつながりのある悪友と知り合う。悪友は運動も勉強もできる上にルックスもよく、異性との交際もうまかった。部活でも入っていれば、その才能で大学進学も目指せるであろう才能を有していたが生かすことはなく、
女性に走った。今も変わらずだ‼
体育の時間は衝撃的で、才能的には中学時代のバケモン級がクラスメートにゴロゴロいた。
勉強も中学時代は学年でトップ10位には入っていたが、高校に入ると、下の下だった。
自分が相当な田舎もんで、勉強もスポーツも凡人であることを気付かせてくれた。
もうこうなるとまったく3年間勉強せず、学校帰りに街に繰り出し全く成長しない日々を3年間過ごした(笑)
しかしこの悪友はRISSINとは正反対で人見知りとは無縁。ほんとに知り合いが多く、その中にこのブログを始めるきっかけを与えてくれた友人と引き合わせてくれた。まさかこんなに長い付き合いになるとはこのときは思いもしなかった。
こんな感じで、高校時代は楽しく過ごせたが、成長という意味では身長が伸びたくらい、精神・学力共にフリーズしていた。当然大学進学も全員不合格。3人仲良く予備校生となった。
ただRISSINは、もともとの基礎能力が他の二人より低く、彼ら以上に勉強しないと進学できないことには幸い気付いていたので、一人別の予備校に進むこととした。これについては正解だった。
1年後私は関西の3(いや2.5)流大学に何とか合格し、友人は関西の有名私立大学に合格、悪友は夜のバイトにのめりこんでいた。
その後結局20歳の頃この3人で夜のバイトをすることになった(笑)。この頃のことは楽しかったが、内容が無いので割愛する。
RISSINは大学入学後、やっぱりスポーツをしたいと考え、ラクロスを選択。実績は残せなかったが、プレイするメンタル・姿勢について、学ぶところが多く、脚力に自信がなかったが、鍛錬すればスピードも上がることが発見できた。
同じくして、時はJリーグ開幕頃で、友人とサッカーサークルを作ろうと、安易であるが友人宅の近所にある関西最高峰偏差値大学のグランドでボールを蹴っていた。そこへその大学院生が一緒にやろうということになり、サークルメンバーを集めてやることになった。
この出会いは後々友人にとっても、RISSINにとっても貴重な出会いとなる。
社会人:貴重な出会い
特にやりたいこともなく、就活も適当に、RISSINは某金融会社に就職し、配属が北陸地方になった。
上場企業ではあったが、中身はこてこての金融会社の営業スタイル・・・・・
この時の最初の上司は破天荒な上司で、金融屋としての適性はこの人を超える人はいなかった。私が言うのも失礼だが少年のような方で、大好きな上司の一人。
その後独立し貸金業を始められ、成功をおさめられている。
そんな上司の指導の元、1年程営業経験をしたころから、急激に実績が上昇。簡単に言うとコツがわかった。2年目が終わった頃には社内でも営業成績はトップクラスになっていた。その後本社勤務を経て、管理職辞令。しかしこの業界の世間の風当たりが強くなり、赴任先の支店が閉鎖となるタイミングで退職を申し出た。
退職後実家に戻るわけですが、就職氷河期真っただ中で、何のスキルもないRISSINに就職先は見つからず、一先ずアルバイトをしながらのんびり考えるかと切り替え、金融時代の同期にオーディオメーカーの派遣販売を紹介してもらい、奈良のカー用品店に常駐で勤務することになる。RISSINは派遣であったが、店舗の皆さんには本当によくして頂いて、可愛がって頂いた。
友人とも久々に再会し、サッカーサークルの後フットサルに移行している事を聞き、参加することにしました。
参加してみると、サッカーサークルの先輩の出身大学の方々で、RISSINみたいな馬鹿な素人と仲良くして頂けるのかとやや不安でしたが、やってみると厳しくもわかりやすく教えて頂き、週5日くらいフットサルをやった結果、何とか試合はつぶさない程度にできる様にはなった。特にいま中国にいる先輩には厳しいことも言われましたが、わかりやすく本気で叱って頂いたので、一度も不服に思うことはなく、いいプレイをしたときは褒めて頂き、成長できたと今でも感謝しています。RISSINの人生でこの方が上司ならと思うナンバーワンです。韓国遠征もいい思い出です。
この頃水上バイクの免許も取得し、週末はフットサル・平日はバイトor水上バイク、夜はフットサルの練習とフリーターにしか不可能な生活を送っていたが、実家ではそろそろ社会復帰しないと駄目な雰囲気であった・・・
その後フットサルチーム強化のためにブラジル人がチームの半分くらいを占めるようになって、どうなることかと思ったが、チームはどんどん強くなっていった。まわりのチームからはブラジル人多すぎるやろと冷たい言葉はかけられていたが、勝てばいいのだ‼まったく聞く気もなかった。
この頃、現在勤める会社に就職が決まり1年間くらいは毎週末大会に参加し、充実した日々を過ごしたことを覚えています。本当にこの頃が人生で一番楽しかったといってもいい位楽しかった。滅茶苦茶頼りになるブラジル人と堅実な日本人が融合していた。何より、超エリートの日本人から、工場勤めのブラジル人、アルバイトの日本人、学生を含め集まったみんなが、言いたいことを言い、勝利に向かって必死に練習し、試合に臨んでいた。これが楽しかった。やんちゃなブラジル人もチームメートになれば、ほんとに頼りになるやつで、話をすると関西弁を駆使し、ラテンのりがほんとに楽しかった。
楽しい事はなかなか長続きしないもんで、転勤を命じられ、チームから離れることを決めた。寂しい思いであったが、チームの強化が進むことで、超人的なプレーヤーがフィールドにあふれ、RISSINの参加できるレベルではなくなっていた。なんせ当時のこのチームからFリーグのステージに行った選手が3名もいたのだから(笑)ちょうどいいころだった。
結婚⇒転勤⇒単身赴任
その後社内結婚でゴールイン。しかし当時の上司とそりが合わず左遷。長男がお腹にいる状況で、二回目の北陸上陸(笑)
とにかく北陸は魚介類が最高にうまかった。
子育てはもっぱら妻に任せっきりでダメな父親です・・・・
しかしここでは、上司に恵まれ、腐っていた気持ちをきれいに浄化して頂いた。
例えるなら蒙驁将軍みたいな上司でした。
7年半北陸で過ごした後、大阪に戻してもらったが、1年もたず、自身の実力のなさで、再び地方進出(笑)
しかもマンションを買って1週間もせずだ。もう笑うしかなかった。
今度はもう単身赴任で行くしかない・・・・・
富士山の見える、職場環境も最高な場所なのだが、休みの日何をしていいのやら・・・・・
ポジティブに考えるとこんな時間は二度とないだろうと‼
友人に相談し、ブログ立ち上げを『よしやってやろうと‼』一念発起
ITスキルの低さに友人も呆れていましたが・・・・
好きな事・興味のある事を調べたり、勉強したりって苦にならない!
小学生でもわかるようなことをこの年で気付きました。
まだまだ稚拙な記事しか書けず、挫折や失敗ばかりのRISSINですが興味を持ってもらえたら幸いです。